2012年5月25日 (金)

金環食と初めてのシンセサイザー

先日のGoogleのトップ画面のmini moogと、先日の金環食。
非常に個人的に感慨深いものがありまして・・・。

中学2年生の時の、私の、ある意味で人生の分岐点となった選択。
それは・・・それまでお年玉等で貯めてた貯金で、天体望遠鏡を買うか、シンセサイザーを買うか、っちゅうことだったんすけどw。

天文学とかも、興味あったんすよ、結構。
シンセサイザーのカタログとビクセンのカタログ、両方並べて穴が開くほど研究してましたな。
で、結局、ビクセンの反射式天体望遠鏡を振り切って、シンセサイザーの方に傾き、色々な大人の事情にも左右されつつ、KORGやRolandを振り切って(YAMAHAは、CS-10触った段階で嫌いになったので候補から外しましたがw)これ買ったんですが。

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以前にも、このブログでも触れた、ACE TONE の PS-1000。
一説によると、Roland創業者の方が、Rolandを始める前にACE TONE(日本ハモンド)ブランドのために設計したモデルらしいのですが、確認は取れていません。まぁ、不人気機種でしたし、超レア品です。
その昔、私がびっくりするほど名器を山ほど所有してるマニアの方に、「フェアライト持ってるって言われても驚かないけど、PS-1000持ってるというのには、びびりました」と言われたことはありますがw・・・そういう、超マニアックな機種です。

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その後も、色々なシンセサイザーを購入したり手放したりしましたが、これだけは、中学生で手に入れてから現在まで、手放さずに所有してます。

この子のステージデビューは、中学3年生の時、ブラバンで「ルパン三世」やった時。
わたしゃ、トロンボーン担当なのに、無理矢理ねじ込んで、この曲だけシンセ担当しましたw。

高校の時は、うちの高校は、音楽の授業の期末試験は自由課題だったもので、高校1年生の時はこれと友達から借りたRoland SH-2, CSQ-100, Saturnを音楽室に持ち込んで、YMOのライディーンを、同級生でブラバンでクラリネットやってた友人と2人でライブ演奏、2年の時は、カセットレコーダー2台でピンポン録音で作ったバックトラックを流しつつ、千のナイフを演奏しましたな。

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当時のうちの高校、とある事情で、「ロック・エレキ禁止」だったことが一部の世間で有名なんですが、シンセサイザーに関しては、当時はクラシック畑の冨田勲氏が有名だったし、YMOも、どちらかというと新しい電子音楽という捉え方をされてたし、そもそも、音楽の先生がシンセサイザー珍しがってた状態だったんで、OKだったんですな。
なんてことを思い出して・・・で、ふと気がついたんですが・・・・。

・・・・あんとき、そういえば、音楽室での本番前のセッティングの時、同級生の松本君も、これ、触ってたよな。「おぉ、これがシンセサイザーか、すげー、ちょと見せてくれ」とか言いながら・・・・。
・・・これ、もしかして、彼が触れた、最初のシンセか?

・・・もしかしたら、これ、とっても貴重なシンセサイザーかもしんないな、なんてことを、ちょっと考えてた今日この頃でした。

え? 松本君? 
いや、高校の同級生で、ブラスバンドでクラリネット吹いてて、すぐ退部しちゃった人です。
彼がギター弾いてるなんて、当時、知らなかったし、サーベルタイガーなんてバンドやってるてことも、ちっとも知りませんでしたが。
卒業後、再会する機会もなく死んじゃった、高校時代の同級生です。

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2012年2月10日 (金)

とある呪術師の覚え書きより抜粋

薬とは、人の病を癒し、人に健康を取り戻させるものである。
が、用法を誤ったり、過度に使ったりすれば、かえって人の病を重くし、災いをもたらすこともある。

毒とは、人の健康を害し、人に災いを為すものである。
しかし、薄め、少量を使うことで、人の病を癒し、薬となるものもある。

薬と毒は表裏一体、使い方次第で、人を癒すし、害も為す。
薬効というものは、本来的に善でも悪でもない。
ただ、作用があり、それが人にとって、たまたま利益になったり不利益になったりするだけのこと。

力というものは、作用と反作用で出来ている。
何かに力を加えれば、反対に向かう力というものが、必ず存在する。
物理学の基本であり、錬金術で言う所の「等価交換」である。

人の思念というものも、他の人に作用し、何らかの力を及ぼすことがある。
他の人に触れずに、人に作用をもたらす強い思念を、「呪」と言う。
呪い(まじない)とも読むが、呪は、「まじく」とも読むそうだ。

西洋で言う所のmagicとも関連する。
magicは、魔術や手品と訳されるが、本来は「呪術」のことを指す。

呪術もまた、その行為と結果は作用と反作用の理(ことわり)の内にある。
その目的が「善意」であろうと「害意」であろうと、それそのものは、単なる作用でしかない。
そして、それに対する反作用があり、これもまた、善悪の別、人にとっての都合の善し悪しに関わらない「力」である。

人に強い作用を及ぼす力を持つものに、「美」というものがある。
人が生み出す「美」には、色々な種類があるが、これらもまた、「呪」である。
人に作用するほどの「美」には、作者の思念が宿る。
作品にそれほどの強い思念を込めれば、これもまた、作用と反作用の理が働く。

それを観賞するものにも、生み出したものにも、それぞれ強い作用を及ぼす。
美もまた、人を癒し、救うこともあれば、人の健康を害し、狂わせるものでもある。

良き思念も、受け手次第で毒になり、悪しき思念も、受け手により善に成る。
力そのものには、本来的に善悪は宿らない。受け手に作用して始めて、意味が生ずる。

己が作り出したものに、ひとに作用するほどの思念を宿らせ、「呪」と成らしめることを、「術」という。
生み出したものが、身から離しても尚、人に作用するほどの力を扱うのであるから、当然、術者は強い力の作用を受けなければならない。
その力に耐え、作り出したものに強い力を宿らせる為には、術の高さが求められる。
術者は、「創ろうとする力」と、「生み出された力」の両者に耐えなければならない。
術が拙ければ、力は、己がだけに作用し、術者の身を損ねるだろう。

「呪」を為さんとする者は、このことを肝に銘じ、常に心して術を磨き、為さなければならない。

注)抜粋とか書いてるけど、引用とかではなくて、一応私が書いたオリジナル作です。念のため。

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2012年1月16日 (月)

ああ、もう、ほんっっとーに面倒くせぇなぁ、と思う。

前にも書いたネタだけど。

好き嫌いっちゅうやつ、ほんっとうに、面倒くせぇと思う。

好みの問題なんで、べつにあんだが何が好きだろうが嫌いだろうが、こっちゃぁ、かまわねぇし、どうでもいいんだけどね。

で、まぁ、何かが好きとかいう話っちゅうのは、大体、本人が好きで喰ってるんだから、現実味のある話だし、参考にもなるし、何より、プラス感情のものなんで、まぁ、よほどしつこくない限りは、べつに何でも無い。

たちが悪いのは、なんとかが嫌いだっつう話。

大体、○○が嫌いてぇ人は、それをほとんど喰ったことがないわけでね。なんせ、嫌いなんだから。

で、そういう方に限って、自分が何故、それが嫌いかについて延々語ってみたり、よく知らんのに(なんせ、そもそも大して喰ってねぇんだから)、そんなもん好きなのがいかにばかげてるかを語り出したり、「そんなもん喰って、何が美味いの」とか、「そんなもん喰う奴の気が知れねぇ」とか、面倒くさいことを聞いてきたりする。

で、また、そういうのに限って、面倒くせぇ理屈つけてくんだよな。
納豆なんて、腐ってるぢゃねーかとか、中華料理なんて、油が多くてどうのとか、キムチやら四川料理やらインド料理なんて、辛いだけぢゃねーか、とか。

ただの喰わず嫌いぢゃねーか、そんなもん。

食い物なんてぇのはなぁ、それぞれ歴史やら文化やら風土やら、年月かけて作られ、食べつがれてるものには、淘汰ってぇのを切り抜けて、残るだけの何かがあんだよ。おめぇにわかんなくてもさ。

なにが嫌ぇでもかまわねぇし、あんたが喰わねぇのは勝手だけどさ、好きで喰ってるやつに、そんなもん喰ってるのはおかしい、みてぇな、得るとこの無いイチャモンつけんのは、やめてくれってぇんだよ。ほんと、面倒くせぇから。

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2011年12月 2日 (金)

最近の私のライブシステム

先日、10年前のライブセッティング写真を載せたので、ついで。
2010年12月時点でのシステム。
名古屋でのライブ前日、宿泊先のホテルで仮組みしたときのもの。

主にコンピューター内の音源を使用したシステム。
AppleのLogic付属のMain Stageで、複数のバーチャルシンセやらエフェクトやら、終いにゃ、ギターの音色からバックトラックの制御、ハードシンセであるnovation Xioのシンセ出力のルーティングまで、全部まとめてコントロールしている。
で、オーディオI/Oでもあるnovation Xioから、2mixで出力される。

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まぁ、これ以降、ライブというものに出演してないので(というか、最近は耳の問題があって、ライブハウスというものに入ることさえ出来ないわけだが)、現在の所、これが最終型ということになる。

先日の、10年前のシステムの頃は、当然のことながら、車無しでは移動不可能だったのだが、現在のセッティングなら、一人で電車でも移動可能。
ほんとに、コンパクトになったものだ。
にも関わらず、昔のセットよりも複雑なことが出来るし、便利なものである。
セッティングも撤収も素早く済むので、転換も楽だしね。

コンパクトすぎて、ステージ上が少々寂しい気もするんだけど、まぁ、こればっかりは、仕方が無い所。

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2011年11月28日 (月)

外耳炎を起こしてしまった・・・

先週の後半くらいから、右耳方面が痛み出した。
で、木曜日には、耳の奥やら耳周辺やらに激痛が走るようになってしまい、顔の右半分が、ややむくんだ感じになってしまった。

終いには、寝てて痛みで眼が覚めるほど。

しかも、耳も籠もった感じになってきて(これは、これまでの難聴の症状と違って、実際に耳の穴が半以上、腫れでふさがれてたわけなんだが・・・)、さらに、三半規管とかが圧迫されてるんだか、少々目眩も・・・。

で、何が辛いって、物が噛めないということ。
考えてみれば、アゴの骨の付け根のあたりって、耳の奥のあたりなんだよねぇ。
食べ物も噛めないし、それどころか、普通に口を閉じて歯を合わせてるのが困難なくらい、痛い。耳の奥が腫れてるのが、違和感で実感出来る。

たまらずに、金曜日に、メニエール病で通院中の医者で診察を受けたら、外耳が炎症起こしてるとのこと。

何でも、メニエールとか突発性難聴とかを患った人が、けっこうやってしまうらしいんだけど、耳を気にしすぎて、耳掃除とかをしすぎたりで耳の中を傷付けてしまい、そっから雑菌が入って、炎症を起こしてしまうんだそうで、先生曰く、「典型的な症例」ということだそうな。

な、なるほどねぇ・・・。そういえば、私の前に診察うけてた患者さんも、診察室の前で、私が貰ったのと同じ薬の使い方を看護師さんに説明受けながら、そんなようなことを言われてたなぁ。「ひどくなると、顔半分が腫れ上がったり、ものすごく痛んだりするの」とか言われながら。・・・・それ、ほぼ私の現状なんですがw。

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で、色々と処方して貰った結果、私の毎食後の飲んでる薬の種類が、上記のような数になってしまった。うーん・・・・。

何が辛いって、朝晩に行う、耳へ直接垂らす薬。
まぁ、当然ながら、耳に水が入った状態になるので、もう気持ちが悪いったら。
で、水とかよりも若干ねばりがあるせいか、それが半日以上にわたって続くのだ。

とりあえず、3日くらいすれば、薬の効果が出始めるということなんで・・・。
なわけだから、まだ、けっこう痛くて、痛み止め無しでは物を食べるのも、まだ少々辛い状態だったりする・・・。

いや、もう、ほんと、体だけぁ大事にして下さい。もう、ほんと大変なんすから。

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2011年11月27日 (日)

10年前の私のライブ用システム

写真を捜してて、たまたま出てきた2001年の5月の写真。
D.A.C.Tというバンドをやってた頃のものと思われる。
これは、ライブ前に自宅(?)で、システム確認のために仮組みしてみた時の物。

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これ以外に、ROLAND AXIS-1というショルダーのMidiキーボードがあった筈。
・・・うーん、ライブの度に、こんなの一式持ち込んでたんだなぁ。

別に、ローディーがいたわけでもなかったので、これを一人で、ライブの度に、本番直前のスタジオ練習、当日朝のスタジオ練習、で、ライブハウス入りと、バラしては運び、組み立ててはまたバラシてと、繰り返してたわけだ。

ほんと、毎回、引っ越ししてるような気分になってたわけだね。

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2011年11月24日 (木)

まくら

えー、昔から、お前百まで、わしゃ九十九まで、なんてことを申しまして、自分も長生きしたいし、自分の家族には、もっと長生きして欲しい、てのが、人情ってもんなんですなぁ。

生き様、死に様、なんてことを言いますけど、ほんと、人の生き死にってぇのは、やっぱり、大変なことでしてねぇ。

先日も、落語界の暴れん坊、立川談志師匠がなくなりましたけどね。いや、ほんとに、大変惜しい方を亡くしたわけなんですが。

しかしまぁ、私なんぞは直接お会いしたことはありませんがね。聞くところによりますと、あの方、「60過ぎたらねぇ、死ぬことを考えて生きなきゃ、ダメなんですよ。いつ終わっても、おかしくねぇんだから。それが、知性ってもんだ。60過ぎても、いつまでも生きたいなんて言うのは、そりゃ、欲望ってぇんだよ」なんてことをおっしゃってたみたいで。

まぁ、ほんとに近頃少なくなった、物のわかった方だったんだなぁ、って思いますなぁ。

しかもまぁ、それが、なんかの大病したときの、お医者様と一緒の記者会見で、煙草吸いながら、そんな話してたってんですがね。
「煙草、良いんですか?」って、聞かれた師匠、「今さら止めたって、治るわけじゃねぇんだから、良いんだよっ! 大体、煙草止めるだの酒止めるだのってのは、意気地なしのやることだって、俺ぁ言ってんだけどね」ってなことを言ってたそうで。

いやいや、長生きが悪いってんじゃないですよ。そりゃ、長生き出来るってのは、良い事なんですがね。でも、何より、最期まで幸せに生きるってぇのが、肝心なんじゃあねぇのかってぇことだと、私なんぞは思うんですかね。

ほんとに、どう生きて、どう死ぬか、ってぇ話では、その人次第なんだと思うんですが、ほんと、あの方は、たいそう気持ちの良い生き様を見してくれたんじゃないかと、私なんぞは思ってるんですがね。

まぁ、そうかと思えば、世の中、健康ブームっていうんですかね、長生き競争みたいに、あれは体に良い、あれは体に悪い、ってんで、たいそう気になさる方も多いみたいで。

なんでも、走るのが体に良いってんで、マラソンとかいうのが、最近の江戸では人気があるそうなんですな。

江戸のマラソン大会なんてなりますと、もう、老若男女、こぞって集まって、中には妊婦や、たいそう太ったお方なんぞも走るそうでして。

私なんぞの聞いた話ですと、偉いお医者様が言うには、フルマラソンなんてものは、健康には、かえって良くないってことなんですけどな。まぁ、何事も、ほどほどが良いもので、度を過ごしたら、良くないってことなんでしょうな。

先日の江戸のマラソン大会では、何でも体重が130キロ以上もある芸人さんが参加したそうで、そしたら、やっぱり無理は良くないんでしょうな。心臓に負担がかかって、心臓発作なんですかね。倒れてしまって、生き死にをさまようくらいの大変なことになっちまったってぇことなんですな。

江戸の御奉行の石原様も心配して、「デブは走っちゃいかん」なんてことをおっしゃったそうなんですが、そしたら、世の中ってのはわからんもんですな。普段、デブは体に良くないとか、デブは不摂生で自分に甘いからだ、とか言ってそうな方々が、そろって、「人権侵害だ」とか、「デブを差別するな」とかってね・・・。いや、あんたたちの方が、普段、よっぽどデブを差別してるんじゃないかなんて思うんですが、まぁほんとに、今の世の中、難しいもんで。

ただまぁ、御奉行の石原さんも、何て言うんですか、昔から、思ったことをそのまま言っちゃうという、少々困ったお方なんですな。

亡くなった談志師匠も、これまたいい勝負で、その石原さんに向かって、「あんたもそろそろ、死ぬ時の事、考える歳だろ。もう、いい歳なんだから、いつ死んだって、おかしくねぇんだからさ」なんてことを、面と向かって言ってたそうなんですが。

まぁ、何にいたしましても、何事も、ほどほどにするがよろしいようで、その辺のことを、昔の人は偉いもんですな、中庸、なんてな言葉で言ってたようです。

良いことも悪いことも、ほどほどに。どんなに体にいいことでも、度を過ぎれば、毒になる。根を詰めすぎると、結局は、良いことはないてぇことですな。
たまにゃあ、寄席にでも来て頂いて、落とし話でも聞いて頂き、大いに笑って浮き世のうさのひとつもはらしていただければ、私どものお財布の方も、助かるてぇもんでして。まぁ、なにとぞよしなにお願いいたします。

まぁ、最近じゃ、ストレス、なんていうふうに言うみたいですな。「ストレスは万病の元」ってなことで、ま、これも、世の中が難しいことばかりになっちまったせいなんですかな。

最近じゃ、お上の方では、TPP、なんてので騒ぎになってるようですな。
TPP、知ってます? 何でもね、環太平洋戦略的経済連携協定ってので、略してTPPなんだそうで。・・・どこをどうすると、TPPになるのか、そっちの方がよくわかんないんですが。

まぁ何にしても、なにやらぶっそうな名前ですな。

最近の親御さんも大変で、こんなのを子供に聞かれちゃうわけですよ。

「ねえねえ、おとっつあん、TPPって、なに?」

「なんだおめぇ、TPPもしらねぇのか。しょーがねーなー。よし、おとっつあんが教えてやろう。TPPってのはな、秋元康って偉い先生が作った、近頃はやりの女性アイドルグループでな、選挙とかジャンケンとかやってな、だれが真ん中に立つかをきめたりするんで有名なんだよ。よーく覚えとけ」

「・・・おとっつあん、それ、AKBだよ」

ってなこともあるみたいで・・・いや、これ、私の作り話じゃござんせんよ。先日のニュースでやってたんで、ほんとのことなんじゃないですかね。・・・まぁ、最近は、ニュースってのも、あまり当てになりませんが。

それにしましても・・・・え? まくらが長い? いい加減に噺に入れと?
いやいやいや、まぁ、そうなんですけどね。

私ね、今日は、「粗忽の使者」を演る予定だったんですけどね、ここ座ったら、用意しといたまくら、すっかり忘れちまって、とりあえず話し始めたんですが、これがまぁ、どうやっても噺に繋がらなくってね、私も困ってんですよ。

なにせ、演ってる当人が、いちばん粗忽だったってなわけでして、いや実に困ったもんでして・・・。

ほんとにまぁ、そんなこんなで・・・・え? あぁ、師匠がお着きになった?

そんなわけで、三途の川で、何でも渡し賃のことでいろいろお揉めになってたらしくて、遅れてらした談志師匠がお着きになったようですんで、私の「粗忽の使者」は、またの機会ということで。

へ?何でお前みたいなヘタクソが、談志の前座を務めてるんだと?
いやいや、それが師匠方が、はやく談志の顔が見たいって、皆さんおそろいで、三途の川まで、総出でお迎えに出てしまったもんで、私みたいなのしか残ってなかったんですよ。すいませんねぇ。

談志師匠、本日の出し物は、「地獄巡り」だそうですよ。

この噺は、江戸前では「地獄巡り」ですが、元々は上方の噺でして、そっちの方では、「地獄八景亡者戯』(じごくばっけいもうじゃのたわむれ)」と申します。米朝師匠が、十八番にされていた噺でございますな。

まぁ、題名の通り、地獄のお話なんでございますが、その中で、あの世の寄席の前を通る場面がありましてね。

で、ここの所で、もう亡くなった古今の名人の噺家のお名前を並べるのが常なんですが、そん時に、まだ生きてる名人を、「近日来演」って言って、並べるんですよ。
米朝師匠は、そこで自分の名前を出しなすって、「米朝、近日来演」と、やられてたらしいんですが。

それで、江戸前ですと、ここ最近では、談志師匠のお名前が出るってのが流行ってたらしいんですが、本日、めでたく・・・いやいや、あの世にいらしたのをめでたがっちゃいけませんがね、ご当人が来演という運びになりました。

それにしても、談志師匠が「地獄巡り」を演られてたってのは、覚えがないんですがね。
師匠、亡くなる前は、自由にしゃべることも出来なかったってことですから、あの世にいって、しゃべれるようになったら、思いっきり大ネタをやってやろう、そうだ、どうせあの世で演るなら、地獄巡りがいいやってなもんで、病の床で、準備されてたんじゃないですかな。

ということで、お後がよろしいようですんで、私の方は、この辺で。

最後まで、どうぞごゆっくりとお楽しみ下さい。

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2011年11月23日 (水)

立川談志師匠が亡くなった。

「60過ぎたらねぇ、死ぬことを考えて生きなきゃ、ダメなんですよ。いつ終わっても、おかしくねぇんだから。それが、知性ってもんだ。60過ぎても、いつまでも生きたいなんて言うのは、そりゃ、欲望ってぇんだよ」

とは、以前の病状会見での談志師匠の言葉なのだが、本当に言い得て妙だと、思う。

「早すぎる最期」とか、残された者はついつい言ってしまうものだが、談志師匠なら、「いくつで逝こうが、俺の勝手だろっ。どう生きたかってのが、大事なんだってーの」と、一喝されそうだ。

どこかのインディアンの言葉でも、「死を横目に見ながら生きるのが大事だ。死を畏れ、死に支配されてはいけない」というようなのがあった。

死を正面に見据えて、それを避けるのではない。死を「横目に」見つめつつ、前を見て進め、ということだと、私は思う。

死が横に来て、耳元で時が来たことをささやく時まで、前向いて戦え、ということなのだ。

死の方ばっかり見て、死の機嫌を伺い、死のことばっかり考えて生きてても仕方が無い。そんなんじゃ、死に支配された人生だ、ということじゃないかね。

どんなに避けても、死は必ずいつか、その時がくれば、やってくる。
何が何でも死を先延ばししよう、永く生きようとするあまり、それ自体が目的化してしまったら、そりゃ、単なる長生き競争になりかねない。

そうしたい人はそうすれば良いのだが、それを望まない人にまで、それを強要してくるような空気が、今の世界にはあふれすぎているような気がする。

自分を空しくしてまで、長生きするもんじゃねーよな。
そんなことより、充実した人生だと、自分で思えるように生きることの方が、重要じゃねーだろか?

自作の戒名は「立川雲黒斎(うんこくさい)家元勝手居士」だそうだ。

最後まで本当に破天荒、風雲児としての「立川談志」を全うされたのではないか。

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2011年11月16日 (水)

易経というのは、わりと合理的な・・・

前の記事で、易経に触れたので、ちと広げてみる。

易経ってのは、いわゆる、あのたけひごの束みたいなので占う、あれなのだけど、あの考え方ってのは、結構面白いなぁ、と、思っている。

易経というのは、私のざっくりとした理解では、「人間というものが、運命という波にゆられて生きているものであるならば、そのある状態のときのある人が引き当てた卦(たけひごを何回か引いて・・・・ちうか、分けて、現れた相)には、その人の現在ある状態が反映される」という仮説に基づいて、現在のその人の周りの運命の波の状態を読み取ろうという感じの占いといったようなもんか。・・・私の勝手な理解なので、鵜呑みにはしないでね・・・。

この占いは、運命の波的なエネルギーの流れというのがあるという前提で考えると、けっこう面白い考え方だと思うのだ。

ただね、ここに、私が占い全般に関して抱く疑問が、立ちはだかる。

その「卦」ってのは、誰に出ても同じ意味を持つのか?っという疑問。

卦、とか、相、ってのは、「ある力を受けて浮かび上がるシンボル」だと思うんですわ。
つまり、その人の状態を表す、記号化された模様。

ただ、そのシンボル、個人差って、無いの?ってことなんです。

たとえば、古典的な精神分析学の、フロイトの夢分析。
夢に現れるシンボル別に、それの持つ意味を体系化したのは良いのだけど、多分、サンプルが、お堅いカトリック教徒だったり、中世の抑圧された人々が多かったせいか、結局全体的に「幼少期の性的抑圧」を原因としてしまったんではないかと・・・。方法論は、間違ってないと思うんですけどね。

夢分析に限らず、精神分析学というのは、患者の精神状態を、さまざまな方法で読み取ろうとする分野で、夢を分析したり、絵を描かせたり、逆に絵を見せて何を連想するか、といったところから、患者の精神状態の「卦」を読もうとするわけなんですよ。

で、同時代の心理学者のユングは、フロイトを尊敬し、その手法によって治療をしていくうちに、フロイトの体系科した「卦」が、人によって、うまく当てはまらないということから、「これ、個人差があるんぢゃね?」ということで、考え方や手法としては認めつつも、そこに現れたシンボルが、その人にとって、どういうサインかを対話から個別に読み解くという方法に移行していったわけなんです。

私的にも、ユングの考え方の方が合理的な気がするんですな。

調べるうちに、ユングも、全てのシンボルが、人によって、完全に個々にばらばらではないということにも、気づくわけなんです。
多くの人にとって、あるシンボルが同じ意味を持ち、同じサインとなるパターンも多い。
これを、個人的無意識と集合的無意識という分け方に分類したんですな。

さて、心理学者の系譜からいえば、次は当然、ヴィルヘルム・ライヒのオルゴンエネルギーとクラウドバスターについて語らないと・・・・って、いや、これは大幅に趣旨から逸脱するので、興味があったら、Wikipedia等で各自調べるか・・・・ま、とりあえず、こちらをどうぞ。


・・・今、久しぶりに、このケイト・ブッシュのPV観てて、今更初めて気がついたんだけど、このライヒ博士を演じてるのって、ドナルド・サザーランド(キーファー・サザーランド=ジャック・バウワーのお父様)やないかっ!
うーん、今まで、ぜんっぜん気がついてなかった。

・・・・ってまぁ、それはともかく話を戻すと、精神分析学と易経では、やや性質が異なるとはいえ、やろうとしてることは、結構似ている部分もあるな、と、思うわけなんですよ。

直接観ることの出来ない、「運命の流れ」なり、「患者の精神状態」なりを、それから派生し、描かれる模様から読み取ろうとする、最初の部分の考え方の部分では。

ということは、精神分析学におけるシンボルの捉え方と同様、易で現れる「卦」にも、差異もあるだろうし、読み手によっての解釈もあるしで、なかなか、定量化は難しいんではないかなぁ・・・なんてことをつらつら考えてたわけでした、というお話。

まぁ、派生して、もう一つ考えるのが、「運命」というのは、エネルギーなのか。
ついでに、そうだとしたら、「粒子」なのか「波動」なのか。
もし、そういったことなら、「占い」という、その状態を「観察しよう」とする行為のエネルギーによって、状態が変化してしまうことはないのか?

・・・・いわゆる、「ラプラスの鬼」のジレンマというやつですねw。
観察するには光が必要だが、光を当てることによって状態が変わる・・・。

ま、そんなこんなで、考え出すと、きりがないし果てもないので・・・・。

とりあえず、自分に来ている流れというのは、占いという形ではなくて、身の周りに起きるサインから読み取るようにしていく方が、確実なのかなぁ、ということで、私は、その方向で気をつけてます。

しっかし、ドナルド・サザーランドさんだったとは・・・。
あの人、「ボディ・スナッチャー 」(SFの古典的名作、ジャック・フィニイの「盗まれた街」を映画化したもの)で主演してて、この役がものすごく印象的で、それ以来、妙に好きなんですよ。むちゃくちゃクセのある怪優なんですが。

・・・この映画も、ジャケットが何なので、なんかゲテゲテのホラーに見えるけど(↓こんな感じ)、内容は、とってもちゃんとしたSFで、それも、けっこう隠れた名作なんですよー。

そういえば、ドナルド・サザーランド氏は、その後、スペース カウボーイ にも出てましたね。
すっかりおじいさんになってて、ちょっとびっくりしたんですが。

そうそう、スペース カウボーイ といえば、主演のクリント・イーストウッド

ダーティーハリーとか観てた頃は、まさかこんな天才的な映画監督の才能があるなんて、想像も出来なかったんですが、今では私的にも、本当に大好きな映画監督ですね。

ジャズミュージシャンのチャーリー・パーカーを描いた、バード って映画を、何も知らずに観て、これ、すごいなーと思って、監督誰だろうと思ったら、クリント・イーストウッド
ほんと、とても失礼なことに、最初、同姓同名の人違いかと思いましたわw。

今や、ハリウッドでは希少な、骨太な傑作映画を撮れる、押しも押されぬ名監督ですけどね。

・・・って、ずいぶん脱線しとるなw。

まぁ、今日の所は、そんな感じでw。

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2011年11月15日 (火)

神仏には、自分でどうしようもない所までは頼りません。・・・ってか、頼ったら、何とかしてくれるもんなんですかね?

私も、科学的に解明出来ないことは信じないというスタンスではない。
ただ、そういうものに関しては、「否定はしないが、あてにもしない」というスタンスなのだ。

そのあたりのことを、この記事、ちょうといい塩梅で、説明してくれてる。

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パワースポットにハマるのは、実は自信がない証拠?
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大体に於いて、巫女体質だの何だの言う人というのは、お告げやら何やらを、ひっじょーに自分の判断に都合良く利用してるだけの方々が多い気がする。

なので、結局の所、お告げでも導きでもなく、単に自分の我欲の向く方向性にのみ忠実に、単に突っ切る「口実」として、自分に都合良く、立証不能な「お告げ」を利用しているだけの人が多いと思う。

本当に、自分を取り巻く世界で、丁度今、自分に風が来ているのに、実は我欲の方でいっぱいいっぱいで、結局、それを見失う人が、とても多いような気がする。

何か、「後ろの人が、そう言った気がした」とか、その程度の薄弱な「お告げ」を基準に物事の選択をするんだったら、あんたの意志や主体性、経験に基づく判断というのは、どこにあるんだ?というのが、私の考え方。

というか、検証不能だからこそ、本人自体が、なんか読み違って、変な方向に行っちゃってるんぢゃねーか?という感じを受ける場合が多い。

なんかね、本当に、自分が導かれてるとか、自分に何かが求められてるな、というのって、もっと、ふとした瞬間に、もっと具体的にやってくるものだと思ってるんですよ。

自分が自分として、精一杯考えて、いっぱいいっぱいになって限界まで最善を尽くして、自分の信じたことに精進して、出来ることは全てやり尽くして、ちゃんと自分の価値というのを自分で築いた結果、最後の最後にやってくるもんじゃないかね。そういうのって。

私の経験的には・・・7トンのパワーショベルのキャタピラの下敷きになっても死ななかった時とか、軽自動車を運転してて、2台の乗用車を巻き込んで廃車にする大事故になっても死ななかった時とか、雨の日にライブハウスの階段で滑って転落し、荷物ごとドア止めに置いてある石に頭から突っ込んでも死ななかった時に、「あぁ、私にはまだ、やらなきゃならないことがあるらしい」と、さすがに感じましたけどね。
まぁ、どれも、私の努力や能力とは、全く関係ないけどw。

ヨーロッパの宗教ならともかく、亜細亜の宗教は、誰かの言うことを信じてりゃ導いてくれるなんて、そんな甘いもんじゃないっすよ。自分で考え、自分で苦労して自分で見出さなきゃ、悟りなんて、得られないんだから。

あ、でもね、これ書く前に読んだ、友人のRenさんの、こういう感じ体験てのは、けっこうあるんですよ。

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うまい事いうなぁ、と思ったのは
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人や物との、妙に運命的な出会いとか、必要なタイミングで必要な何かが現れるとか、流れが来た時って、そういのは、結構あるんですよ。
易で言う、卦、的なものなんじゃないですかね。
そういう、もっと素朴な、自分を取り巻く流れ、波みたいなものは、確かに感じることはあります。
運命なんて、そんな大それたものではなくて、ね。

何にしてもね、自分で自分の能力を高めようともしない。努力もしない。単に「天から授かった」と称するものを当てにして、でも、それを磨こうともせず、単に超常的なものに頼るのみ。そういう人たちって、そんなんで、何か特別なことが成せると、本気で思ってるんでしょうかね?
何か、特別に選ばれた天の子ですか、あんたは?
そんなの、どっかのロールプレイングゲームじゃあるまいし。
普通、何の努力もなく、ある朝突然「伝説の勇者」になんて、なれませんよ。

結局、何の努力も無しに自分の価値観を磨くこともなく、それらを放棄して判断を神仏やら超常現象やら超感覚にゆだねる人間なんて、単に甘ったれてんだと、私は思いますがね。

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