神仏には、自分でどうしようもない所までは頼りません。・・・ってか、頼ったら、何とかしてくれるもんなんですかね?
私も、科学的に解明出来ないことは信じないというスタンスではない。
ただ、そういうものに関しては、「否定はしないが、あてにもしない」というスタンスなのだ。
そのあたりのことを、この記事、ちょうといい塩梅で、説明してくれてる。
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パワースポットにハマるのは、実は自信がない証拠?
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大体に於いて、巫女体質だの何だの言う人というのは、お告げやら何やらを、ひっじょーに自分の判断に都合良く利用してるだけの方々が多い気がする。
なので、結局の所、お告げでも導きでもなく、単に自分の我欲の向く方向性にのみ忠実に、単に突っ切る「口実」として、自分に都合良く、立証不能な「お告げ」を利用しているだけの人が多いと思う。
本当に、自分を取り巻く世界で、丁度今、自分に風が来ているのに、実は我欲の方でいっぱいいっぱいで、結局、それを見失う人が、とても多いような気がする。
何か、「後ろの人が、そう言った気がした」とか、その程度の薄弱な「お告げ」を基準に物事の選択をするんだったら、あんたの意志や主体性、経験に基づく判断というのは、どこにあるんだ?というのが、私の考え方。
というか、検証不能だからこそ、本人自体が、なんか読み違って、変な方向に行っちゃってるんぢゃねーか?という感じを受ける場合が多い。
なんかね、本当に、自分が導かれてるとか、自分に何かが求められてるな、というのって、もっと、ふとした瞬間に、もっと具体的にやってくるものだと思ってるんですよ。
自分が自分として、精一杯考えて、いっぱいいっぱいになって限界まで最善を尽くして、自分の信じたことに精進して、出来ることは全てやり尽くして、ちゃんと自分の価値というのを自分で築いた結果、最後の最後にやってくるもんじゃないかね。そういうのって。
私の経験的には・・・7トンのパワーショベルのキャタピラの下敷きになっても死ななかった時とか、軽自動車を運転してて、2台の乗用車を巻き込んで廃車にする大事故になっても死ななかった時とか、雨の日にライブハウスの階段で滑って転落し、荷物ごとドア止めに置いてある石に頭から突っ込んでも死ななかった時に、「あぁ、私にはまだ、やらなきゃならないことがあるらしい」と、さすがに感じましたけどね。
まぁ、どれも、私の努力や能力とは、全く関係ないけどw。
ヨーロッパの宗教ならともかく、亜細亜の宗教は、誰かの言うことを信じてりゃ導いてくれるなんて、そんな甘いもんじゃないっすよ。自分で考え、自分で苦労して自分で見出さなきゃ、悟りなんて、得られないんだから。
あ、でもね、これ書く前に読んだ、友人のRenさんの、こういう感じ体験てのは、けっこうあるんですよ。
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うまい事いうなぁ、と思ったのは
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人や物との、妙に運命的な出会いとか、必要なタイミングで必要な何かが現れるとか、流れが来た時って、そういのは、結構あるんですよ。
易で言う、卦、的なものなんじゃないですかね。
そういう、もっと素朴な、自分を取り巻く流れ、波みたいなものは、確かに感じることはあります。
運命なんて、そんな大それたものではなくて、ね。
何にしてもね、自分で自分の能力を高めようともしない。努力もしない。単に「天から授かった」と称するものを当てにして、でも、それを磨こうともせず、単に超常的なものに頼るのみ。そういう人たちって、そんなんで、何か特別なことが成せると、本気で思ってるんでしょうかね?
何か、特別に選ばれた天の子ですか、あんたは?
そんなの、どっかのロールプレイングゲームじゃあるまいし。
普通、何の努力もなく、ある朝突然「伝説の勇者」になんて、なれませんよ。
結局、何の努力も無しに自分の価値観を磨くこともなく、それらを放棄して判断を神仏やら超常現象やら超感覚にゆだねる人間なんて、単に甘ったれてんだと、私は思いますがね。
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